2009/10
造船技術者 赤松則良君川 治


 長崎海軍伝習所の先輩でオランダに一緒に留学した榎本武揚は終世の友であり、義兄弟でもある。オランダに一緒に留学した林研海の姉が榎本夫人、妹が赤松夫人である。媒酌人が同じく留学した西周であり、赤松の娘登志子が西周と同郷の津和野出身の森鴎外夫人である。
 1860年、日米通商条約批准のための遣米使節は米国軍艦ポーハタン号に乗り組みサンフランシスコ、パナマを経由してニューヨーク・ワシントンに向かった。この米軍艦に随伴して初めて太平洋横断航海をしたのが幕府軍艦咸臨丸であった。咸臨丸の軍艦奉行・提督は幕臣木村喜毅、乗組員の多くは長崎海軍伝習所の伝習生であった。艦長は勝海舟、航海長小野友五郎、機関長肥田浜五郎、運用長佐々倉桐太郎などが乗り組んだが、伝習生3期の赤松則良も20歳の若さで海軍士官13名の一人として測量方(航海術)を担当して乗組んだ。他の乗組員としては通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)や提督の従者の福沢諭吉もいた。
 サンフランシスコに着くとアメリカ海軍の祝砲で迎えられ、答砲は赤松則良が担当して成功し勝海舟から褒められた。
 赤松則良は幕臣吉沢家に生まれ、実祖父の赤松家の養子となる。蘭学者坪井信道の蘭学塾に入り、その後江川坦庵の砲兵塾に入門、若くして蕃書調所教授出役となる。その後、長崎官軍伝習所の3期生に選抜されて測量術(航海術)を専攻した。同期の伝習生には内田恒次郎、沢太郎左衛門、田辺太一、松本良順(軍医)などがいる。1年4か月の教育を終って幕府軍艦朝陽丸で江戸に戻る。
 米国から帰国して軍艦操練所教授となった赤松則良は、1862年にオランダに留学生に選抜された。
 幕府は海軍力強化のためアメリカに軍艦製造を依頼するが、アメリカでは南北戦争が始まったため依頼先をオランダに変更した。留学生たちは軍艦の製造に立会して監督する仕事、軍艦建造期間中に造船学や航海術など最新の軍事技術を習得すること、完成した軍艦開陽丸に乗り組み日本へ回航することを目的としており、3年半オランダに滞在した。総勢15名、海軍士官は内田恒次郎(海軍全般)、榎本武揚(機関学)、田口俊平(測量術)、沢太郎左衛門(砲術)、赤松則良(造船学)の5名、職人はディアナ号建造に携わった伊豆の船大工上田寅吉を含めて6名、その他に西周(経済・法律)、津田真道(経済・法律)、伊東方成(医学)、林研海(医学)も加わっている。西と津田は2年半の留学を終えて帰国、1866年9月竣工した開陽丸に乗組んで内田、榎本、田口、沢が職人らを伴って帰国の途に就くが、赤松則良と軍医2人は留学を続けることとなる。しかし、幕府瓦解の報を聞き急遽帰国すると、榎本等幕府海軍の多くは江戸を脱出して箱館に向い、赤松はこれに加わることは出来なかった。
 将軍徳川家は徳川家達が藩主となって静岡藩70万石に転封となり、幕臣たちは戊辰戦争に加わるもの、榎本軍に従って箱舘に行くもの、江戸に残るもの、藩主に従って静岡に移るものなどバラバラになってしまった。
 赤松則良は、その後沼津兵学校1等教授に招かれて数学を教えた。この学校は正式名称は「徳川家兵学校」で陸軍学校だが、教授連は校長が赤松と一緒にオランダに留学した西周、一等教授の伴鉄太郎、塚本桓輔、田辺太一は長崎海軍伝習所の出身。幕府陸軍出の一等教授は佐倉藩出身で蘭学者手塚律蔵に学んだ大築尚志のみだ。
 その後維新政府に出仕した赤松則良は、オランダ留学で身につけた造船学を武器として、1870年海軍兵学校教授、1874年横須賀造船所長となって軍艦「磐城」を建造、1886年に海軍技術将校のトップである海軍造船会議議長兼兵器会議議長に就任。その後、佐世保鎮守府長官、横須賀鎮守府長官となり、明治26年(1893)に51歳で退官して静岡に転居した。明治30年に日本造船協会初代会長に就任し、76歳まで16年間会長を務めた。長崎海軍伝習所に入ってから60年間、海軍と造船に係る人生であった。
 明治新政府は旧幕府のテクノクラートを官僚に招聘した。多くの幕臣たちが政府に出仕するが、特技・才能を活かして枢要なポストに就くものと下積みに甘んずる者と悲喜こもごもである。
 晩年、赤松則良は静岡県磐田市に住み、息子範一は会社社長、孫の照彦は磐田市長となる。旧赤松家の敷地は約3000坪、照彦夫人から磐田市に旧家と土地が寄贈されて平成16年に記念館として開館した。
 旧東海道を歩くと丁度中間が袋井宿で、次の28番目が見付宿である。街道筋で一際目立つのが明治8年に建てられた見付学校である。見付学校は2階の上に2層の楼が突き出した白壁の擬洋風建築で、その後1階増築されて現在は3階2層の建物となり、国指定文化財である。
 旧東海道から少し北に行った所に旧赤松家記念館がある。門番所のある立派な門・塀・土蔵・内倉が残っており、赤煉瓦に白壁、内部は木造となる明治の建築である。母屋は復元されて常設の展示室となっており、米倉・内倉も企画展示室として公開されている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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